福島便り
太平洋戦争前、多くの日本人男性が仕事を求めて移住したフィリピンには戦後、国籍がないまま生きることを余儀なくされた日系2世がいる。判明しているだけで3815人。このうち福島県出身者を父に持つ日系2世は180人を数える。喜多方市ゆかりの猪俣典弘さん(55)は、認定NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(東京都)の代表理事の一人として、日系2世の日本国籍を回復させる活動を約20年にわたり続けている。「日本人の父に誇りを持ち、日本とのつながりを大切にしたいという方々の思いに応えたい」■支援NPOの代表理事
就籍望む50人救いたい
両政府に「無視された存在」
猪俣さんは、喜多方市出身の父智夫さん(79)が小学校教員を務めていた横浜市で生まれ育った。国際活動の原点は立正大仏教学部1年の時。ネパールやスリランカで農作業のボランティアを経験する中で、発展途上国の人の役に立ちたいとの思いが芽生えた。帰国後、上智大を拠点にする非政府組織(NGO)「アジア井戸ばた会」の門をたたく。上総掘りという井戸掘りの伝統技術を学び、フィリピンで井戸掘りの支援に当たった。
大学卒業後、フィリピン・バターンにあるNGOで活動を続けた。その後は首都マニラにあるアジア社会研究所に留学し、現地語のタガログ語に磨きをかけた。残留日系2世と初めて出会ったのはこの頃だった。2005(平成17)年にフィリピン日系人リーガルサポートセンターに入ると、豊富な活動経験や語学力を買われ、現地で日系2世の聞き取り調査を任された。年に何度もフィリピンと日本を行き来し、日本の役所で戸籍を新たにつくる「就籍」に必要な情報の収集に奔走した。
一人また一人と話を聞くうちに、無国籍問題の罪深さを知った。当時のフィリピンでは父親の国籍が子どもの国籍となるため、母親がフィリピン人であっても日系2世は無国籍状態となった。身分が証明されず、旅券の発行などができなかった。戦後の反日感情の高まりを受け、日系2世であることを隠しながら肩身の狭い暮らしをしていた。憎悪から自身や家族を守るため、日本に関する書類を処分したケースが多く、のちに日系2世であることの証明が困難を極めた。
「残留日系2世は日本国に見捨てられ、フィリピン政府にも無視されてきた存在だ。誰かが手を差し伸べなければ絶対に解決できない」。NPOはこの二十数年で、日系2世323人の就籍を実現させた。
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戦後80年を迎える中、フィリピンの残留日系2世の平均年齢は83歳となり、最高齢は97歳で高齢化が進んでいる。現地の日系2世3815人のうち1649人が国籍を回復した一方で、未取得者2166人のうち生存を確認できているのはわずか134人。このうち約50人が日本での就籍を望んでいる。
国会での論戦を通じ、日本政府が腰を上げた。石破茂首相は27~30日の日程でベトナムとフィリピンを訪問する予定で、29日にマニラで日系2世と面会する方向。3月の参院予算委員会で首相は「総理大臣が会うことで日本の思いが伝わるならば、ぜひ実現したい」と意欲を示していた。
猪俣さんは現地で日系2世とともに首相を迎える。「今回の面会は日系2世の大きな希望になる。戦後の苦難の歴史や日本国籍回復への願いを聞き届けてほしい」と心待ちにする。ただ、就籍の実現には平均で数年を要するため、日系2世の高齢を考えると残された時間は少ない。「戦後80年の節目に、政治の英断で無国籍の日系2世を一括救済してほしい」