福島のニュース
信夫郡渡利村(現福島市渡利)に飛来した米軍のB29爆撃機が1発の爆弾を投下した。田んぼに大穴ができ、破片を浴びた14歳の少年が亡くなった。
「今も姉ちゃんと呼んでる気がする」。福島市渡利に住む斎藤ミチさん(98)は弟の命を一瞬にして奪った模擬原爆のかけらをそっとなで、80年前の記憶を思い起こした。
終戦間際の1945(昭和20)年7月20日朝、どんよりとした曇り空が広がっていた。ミチさんは当時18歳。この日は、自宅から300メートルほど離れた田んぼの草取り作業をする予定だった。小雨が降り始めたため、弟の隆夫さん=当時(14)=が「姉ちゃん、女が蓑[みの]笠[かさ]着て田車担いで行ってることねぇ」と気遣った。本来はミチさんが行くはずだったが、代わってくれた。「気を付けて行きな」。いり豆を手渡し、見送った。これが最後の会話となった。
しばらくして、けたたましい爆音が鳴り響いた。その直後の爆風で、いろり脇で地下足袋を履いていたミチさんは吹き飛ばされた。飛び散った破片や爆風で近くの渡利第一国民学校(現渡利小)の窓ガラスは全て割れ、半径2キロの住宅の屋根瓦などが壊れた。
家を飛び出し、近くの防空壕[ごう]へ走って逃げる途中、土手で「伏せろ」と母が叫んだ。背後から空を切るものすごい音が迫ってきた。振り向くと、黒煙が上がっていた。「隆夫がやられた」。ミチさんと両親は急いで田んぼに向かった。爆心地の田んぼに直径約35メートルの穴が開き、周りの土は盛り上がり、稲は水面すれすれでスパリと切れていた。
田んぼにうつぶせで倒れていた隆夫さんを見つけた。腹の皮膚が切り裂かれていた。腹の中に、別れ際に手渡したいり豆が見えた。息絶えた隆夫さんを抱き上げ、担架で自宅まで運んだ。おなかを満たしてあげようと、炊いたご飯を腹部に詰め、さらしで巻いて弔った。
父は怒りを爆弾の破片にぶつけるように、地下足袋で蹴り上げ、大けがを負った。憎しみが詰まった塊を手放すことはできなかったが、お経の聞こえる所に置いておきたいと、供養のため近所にある菩[ぼ]提[だい]寺の瑞[ずい]龍[りゅう]寺に納めた。
半月後に広島と長崎に落とされた原爆の投下訓練目的の模擬原爆だと、後に知った。「本当なら私が死ぬはずだったんだ」。姉思いの優しかった弟を失った悲しみと後悔は80年たった今も癒えることはない。
満州事変にノモンハン事件、大東亜戦争―。子どもの頃に起きた争いを唱えるように指で数えた。「戦争はろくなことない」とつぶやいた。(福島民報・三本杉優人)=随時掲載=■メモ
模擬原爆
原爆投下を目的に編成された米軍部隊が、目視で標的を狙う高度な技術を要する投下の訓練として、日本各地で実施した。福島県内では福島市の他、郡山市に2発、いわき市に3発が落とされ、43人が犠牲になった。実態は詳しく分かっていなかったが、愛知県の市民グループなどが米軍資料を確認し、1990年代初頭に全容が判明した。