戦後80年 戦時中、東京から疎開 小坂春美さん 89 寂しさと懐かしさ混在の地 戦後初めて福島県会津若松市へ

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戦後80年 戦時中、東京から疎開 小坂春美さん 89 寂しさと懐かしさ混在の地 戦後初めて福島県会津若松市へ

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太平洋戦争末期、福島県会津若松市の会津東山温泉に東京都から多くの女子児童が疎開した。台東区の根岸小(当時・国民学校)3年だった小坂春美さん(89)=東京都荒川区東日暮里在住=は旅館で過ごした遠き日々を思い返す。鮮明によみがえるのは、家族と離れた寂しさと空腹のつらさ。当時を懐かしく思う半面、つらい体験も胸に去来し、疎開先に足が向いたことは一度もなかったが、この夏、温泉街で開催される会津東山盆踊りに招待された。「今、行かなければ、もう行く機会はないかもしれない」。8月2日、80年ぶりに会津の地を踏む。■意を決し東山盆踊り参加
1944(昭和19)年8月以降、台東区の3年生以上の女子児童約1400人が会津東山温泉に集団疎開した。幼少時より病弱だったという小坂さんは体調不良のため、級友より少し遅れて会津を訪れた。
「よく覚えているのは、とにかくおなかが減ったこと」。地元の人々のおかげで毎日、食事はあったが、育ち盛りの子どもにとっては決して十分とは言えず、空腹との闘いだった。道端の植物を食べておなかを壊した級友もいた。食事の時間になると、広間に全員が集まる。少しでもおかずの量が多そうな食膳を探し、われ先にと席を争った。小坂さんは「大して変わらないのに、それだけ必死だった」と述懐する。
疎開中、実家から小包が時々届いた。母が苦労して調達した小麦粉で焼いてくれた“おやつ”だった。これが届くと先生に呼び出された。「他の子に配るほどの量はなかったから、その場で、こっそり食べるように言われた。申し訳なさもあり、あまり食べた気がしなかった」と苦笑いする。温泉街だけに風呂には入れたが、髪の毛のシラミにも悩まされた。
当時は各旅館に「泣き部屋」があったと伝わる。親元を離れた寂しさから泣きたくなった子どもが、その部屋にこもって涙を流したという。小坂さんも寂しさに押しつぶされそうになったが、心の支えになったのが母との手紙、そして会津に向かう汽車で出会った青年軍人とのはがきのやりとりだった。
母からの文面には娘の体調や暮らしを気遣う言葉が並ぶ。青年軍人は仕事先の盛岡や奈良などから絵はがきを送ってくれた。実際に会津まで会いにきてくれたこともあった。小坂さんは、セピア色になった手紙やはがきを今も大切に保管している。「私が書くのは食べ物を送ってほしいとか、そんなことばかり。でも、文通があったから寂しさを紛らわせられた」
1945年8月15日。旅館の大広間で玉音放送を聞いた。せみ時雨にかき消されたかのように、当時の心境はあまり覚えていない。東京に戻ると、自宅は空襲の被害から免れていたが、周辺は焼け野原だった。母と妹ら家族は長野に疎開していて無事で、軍医として従軍した父も後に帰還した。
終戦の夏以来、会津は一度も訪れていない。懐かしさとつらい思い出とが「半分半分だったから」。今夏、今となっては数少ない疎開経験者の一人として会津東山盆踊りに招待を受けた。自身も高齢になり、思い切って訪れることにした。「今行かなければ、もう二度と行けない気がして。初めて見る盆踊りも楽しみ」と静かに言葉を紡ぐ。
会津の地で、あの頃の面影を探す今、改めて強く思う。「自分たちのような経験は、今の子どもたちにしてほしくない」■疎開児童励まそうと…
会津東山盆踊りの始まり
会津若松市の夏を彩る会津東山盆踊りは、太平洋戦争末期に会津東山温泉に集団疎開した児童を励まそうと、1944(昭和19)年8月に開催したのが始まりとされる。
会津東山温泉には東京都台東区の西町、根岸、谷中などの国民学校から3年生以上の女子児童約1400人が疎開し、複数の旅館に身を寄せた。地元有志が温泉街を流れる湯川にやぐらを組み、盆踊りで児童を励ました。盆踊りは80周年を迎えた昨年、新型コロナ禍を経て5年ぶりに復活した。今年も8月1日から4日まで踊りの輪を広げる。