戦後80年 核なき世へ体験語る 危ないと、よく分からなかった 4歳時、広島で被爆 田尾さん(福島県飯舘村在住)

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戦後80年 核なき世へ体験語る 危ないと、よく分からなかった 4歳時、広島で被爆 田尾さん(福島県飯舘村在住)

福島のニュース


80年前の1945(昭和20)年8月6日。米軍による原爆が投下された広島の街は火の海に包まれた。福島県飯舘村在住の田尾陽一さん(84)は疎開先の広島県坂村(現坂町)で、広島市上空でさく裂した原爆の閃[せん]光[こう]を目撃し被爆した。当時4歳だった。2011(平成23)年3月の東京電力福島第1原発事故を受け、2017年に飯舘に移り住んだ。「核なき世界の実現に向け、(自らの)体験を伝えなければならない」。原発事故の被災地で核廃絶と世界平和を願い続けている。
田尾さんは横浜市出身。太平洋戦争末期、米軍による空襲の激化に伴い、1943年ごろに父・司六さんの古里である坂村に身を寄せた。祖父の浅一さんは大工の棟[とう]梁[りょう]を務める傍ら、農業をなりわいとしていた。田尾さんは疎開先で野山を駆け回り、ヤギと戯れた。
2年後の8月6日朝だった。「おい、米軍機だ。見てみろ」。外から浅一さんの声が聞こえた。田尾さんは寝間着姿のまま縁側に出て、浅一さんの手を握った。空を見上げると、広島市方面に飛び去る軍機が見えた。後にB29爆撃機だったと聞かされた。
午前8時15分。「ピカッ」「ドン」。目を開けていられないほどの激しい閃光に続き、衝撃波に襲われた。広島市の原爆爆心地からは約9キロ離れていたが疎開先の戸はゆがみ、開かなくなった。
当時4歳。「逃げようとか危ないとか、そんなことはよく分からなかった」。皮膚が焼けただれた人たちが列を成し、村の小学校に集まってきた。幼いながら、大変なことが起きているとは感じた。近所でよく面倒を見てくれた年上の女性「たまちゃん」は爆心地近くで被爆し、重いやけどを負いケロイドが残った。
「あの日の出来事は今でも脳裏に焼き付いている」。田尾さんは古い記憶をめくるように話し終えると、ゆっくりと目を閉じた。
終戦後、自宅のある横浜市に戻った。麻布中・高(東京都)を経て、東京大理学部では物理学を専攻。エネルギー関連の研究に没頭し、東京大大学院修士課程を修了した。民間シンクタンクやIT企業などの経営に携わった。
2006年に一線を退き、悠々自適の日々を過ごしていた。福島県とは無縁の暮らしだったが、2011年の東日本大震災と原発事故が転機となった。「被災地の放射線量はどうなっているのだろう」。疑問と心配が頭を巡った。旧知の研究者らと、すぐに福島県沿岸部に車を走らせた。
被災地を歩き回り、行程の最後に訪れた飯舘村で放射線測定や除染方法の検討などに協力してくれる村民に出会った。何度も村に足を運び、放射線防護や除染、避難指示解除に向けた取り組みで村民と苦楽をともにしてきた。
気付けば、飯舘に愛着が湧いていた。2017年3月に移住した。村民や研究者らと発足した「ふくしま再生の会」の理事長を務め、被災地の環境再生を目指している。
飯舘で暮らす今、多くの県民が避難を余儀なくされ、コミュニティー崩壊の根本要因となった原発は運転を止めるべきだと強く感じている。安全性の確保や高レベル放射性廃棄物の問題が解決できていない以上、原発は「不完全なシステムだ」と指摘する。
「広島の体験、福島の現状を発信していくことが核や原子力を再考する契機となる。それが一番の平和へのメッセージだ」
戦後80年を迎え、誓いを新たにしている。