【戦後80年 つなぐ 福島から】(1) 長崎原爆投下から80年 閃光今も脳裏に 福島市 池沢恵美子さん

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【戦後80年 つなぐ 福島から】(1) 長崎原爆投下から80年 閃光今も脳裏に 福島市 池沢恵美子さん

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まばゆい閃[せん]光[こう]の直後、自宅のガラスが粉々に吹き飛んだ。おぼろげながら、決して忘れられない80年前の光景が脳裏に浮かぶ。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、長崎市上空で米軍のB29爆撃機が原爆を投下し、ごう音とともに炸[さく]裂[れつ]した。
結婚を機に福島市に移り住んだ池沢恵美子さん(84)は、爆心地から4キロ余り離れた長崎市上小島地区の自宅で被爆した。当時は4歳。フィリピンに出征した父・利雄さんを戦地で亡くし、古里を焼いた原爆は尊い命を一瞬で奪った。「あんな悲しい経験、二度としたくない。戦争も原爆も絶対になくすべきだ」。反戦、核廃絶の思いを強くする。
1940年12月、母マチ子さんの生家があった長崎市で生まれ、間もなく旧満州(現中国東北部)に渡った。利雄さんは現地の繊維工場の責任者を務めていた。池沢さんが2歳ごろ、一家で長崎市に戻ってきた。利雄さんはクジラ肉などの卸問屋や造船関連企業に勤めた。戦況悪化に伴い、利雄さんの元にも赤紙が届いた。“片道切符”を手に戦地に赴いた利雄さんの人柄を池沢さんは、あまり覚えていない。「唯一、風呂に入れてくれた思い出はある。きっと優しい人だったんでしょう」。祖国の土を再び踏めなかった亡父の無念に思いをはせた。
原爆が投下された後の街の様子は思い出せない。ただ、近所の男子中学生が全身を真っ黒にして帰ってきた場面は鮮烈に覚えている。戦後の混乱期を生き抜くため母マチ子さんは洋装店を開き、女手一つで池沢さんと弟2人を育てた。マチ子さんは質の高い洋服を買い付けるため神戸市まで足を運んでいた。よりすぐりの品々は飛ぶように売れていたという。■原爆と原発に翻弄
池沢さんは20代後半の時、長崎市の造船関連企業に勤めていた郡山市出身の邦夫さんと出会い結婚。福島県に転居した。
2011(平成23)年、東京電力福島第1原発事故が起きた。多くの県民が避難を強いられ、子どもを持つ親が食べ物に神経をとがらせる姿を目の当たりにした。自身も含め、原爆と原発に翻[ほん]弄[ろう]された体験は消えることはない。
福島県原爆被害者協議会の事務局長として、15日には福島市で開かれる「ふくしま平和のための戦争展」で戦時体験を講演する。協議会員は35人いるが、実際に総会などで顔を合わせるのは5人もいない。高齢化は著しく、戦争の経験を伝承していく難しさを痛感している。
悲観していてもしょうがない、との思いを常に持ち続けてきた。被爆し、苦悩したことは確かにあった。それでも、戦争を知らない世代に自身の体験を語る際には「『命があってこそ。今を大切に生きてほしい』。そういうメッセージも伝えているんです」。下ではなく、前を向く大切さを語り継いでいる。
終戦の日から間もなく80年。戦後生まれが総人口の87%を超え、戦争の記憶の風化が懸念されている。二度と同じ過ちを繰り返してほしくない―。惨禍を経験した県民は時代、世代、地域を超えて、平和の尊さを次の世代につないでいる。