福島のニュース
福島県南相馬市原町区にあった「柳屋」は、戦前は料亭、戦後は旅館として多くの人に食や癒やしを提供した。戦時中は原町飛行場の軍人を受け入れた。店を閉じた現在、建物は取り壊され、当時の面影を残すのは、庭園のマツと灯籠のみ。「教え子を戦場に送り出すわけにはいかない」。料亭の娘として生まれた南相馬市原町区の若松蓉子さん(89)は中学校の教師として、戦争の悲惨さや平和の尊さを訴え続けてきた人生を振り返る。
死にたくない―。酒をあおってそうつぶやく若い兵士の言葉が耳に残る。中には特攻隊員もおり、祖国を守るため命を落としていった。柳屋は江戸時代に開業し、街道を行く多くの旅人をもてなした。原町飛行場が開場してからは全国から集まった軍人が訪れるようになった。訓練が休みの日は、実家に帰れない県外出身者が食事に訪れた。当時、原町国民学校(現・原町一小)に通っていた若松さんは何人かの軍人と仲良くなった。料亭に下宿し、飛行場で訓練を積んだ特攻隊員とも知り合った。その多くは沖縄の空に散った。
地元も戦禍に見舞われた。庭に8畳ほどの防空壕[ごう]を作り、「ウーウーウー」と空襲警報が鳴るたびに駆け込んだ。忘れもしないのは、1945(昭和20)年8月9、10の両日の原町空襲。日中は防空壕に隠れたが、艦砲射撃が来るとの情報が入り、母と幼い弟2人と共に山側の親戚宅へ逃げることになった。午後8時ごろ、母につかまって家を出た。横目には真っ赤に染まる夏空が見え、空襲で標的にされた工場や飛行場が燃えていた。無事に親戚宅までたどり着き、終戦を迎えたが、空自体を焼いているような光景は脳裏に焼き付いて離れない。
戦後、中学校教師となり、相双地方の学校で国語を教えた。教材に広島の被爆を描いた井伏鱒二の小説「黒い雨」など戦争に関わる作品を扱う際には、自身の空襲体験などを交えて詳しく教えるよう心がけた。夏休みには戦争反対を訴える新聞や雑誌の記事を読んで意見を書く宿題を出した。校内の一部の管理職から疎まれることもあったが信念を曲げず、二度と悲惨な戦争が起きないよう生徒に伝え続けた。
定年退職後の1997(平成9)年、原町市(現・南相馬市)の要請で市国際交流協会を立ち上げた。外国人が地域に溶け込めるよう日本語教育や姉妹都市との高校生交換訪問などの活動に奔走した。「戦争を生む一因には他者への無理解がある」との考えから、人種や外見で偏見を持たない社会を目指した。
柳屋で生活を共にした軍人や家族と撮った写真を見返すたびに、80年の歳月をかみしめる。「戦争を覚えている最後の世代」と感じる。戦時中に知り合った軍人は主に16~19歳。「軍国主義の思想が、今の高校生くらいの若者を死と隣り合わせにさせる世の中にした」と目を伏せる。「戦争の本質を正しく認識し、自分で考えることが大切」と言葉に力を込める。自身が感じたこと、経験したことを次の世代につないでいく。