【戦後80年 つなぐ 福島から】(4) 「悪魔」生む採掘に動員 誰かが語らなければ 福島県平田村 吉田秀忠さん

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【戦後80年 つなぐ 福島から】(4) 「悪魔」生む採掘に動員 誰かが語らなければ 福島県平田村 吉田秀忠さん

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のどかな田園風景が広がる福島県平田村小平地区。吉田秀忠さん(95)は「昔のことを思い出すのに、あまり自信がなくなってきた」とつぶやいた。
戦争による貧困に苦しんだ幼少期の記憶がおぼろげになってきている。原爆開発研究(ニ号研究)のため隣の石川町で進められていたウランを含む鉱石の採掘に従事した。光景はもやがかかったようになったが、「悪魔の兵器」を造るための作業に何も知らないまま動員されたと知った時の恐怖は今も鮮明だ。戦後80年の今夏、多くの人の人生を狂わせた戦争の怖さを「誰かが伝えなければ」と、重い口を開いた。
1930(昭和5)年、平田村の農家の長男に生まれた。軍に入った父は1938年に旧満州(現・中国東北部)ハルビンへ。翌年に母、弟、生まれたばかりの妹と吉田さんの家族4人でハルビンに移住した。しかし、同年のノモンハン事件で父が戦死。残された家族は平田村に戻り、吉田さんは幼くして一家の大黒柱に…。農業にいそしむ日々を送った。
吉田さんが学徒労働員としてウラン鉱物の採掘に携わるようになったのは太平洋戦争末期の1945年、旧制私立石川中(現学法石川高)3年生の時だった。陸軍の依頼で理化学研究所が同年4月から石川町で進めてきた作業で、吉田さんも毎日のように朝から夕まできつい作業に当たった。
2人一組になり、町内の石川山でつるはしで斜面を掘り、もっこで岩を運ぶ日々。自分たちでは目当ての鉱物か見分けがつかなかった。掘り出しては現場にいた若い担当者に石を確認してもらう作業の繰り返しだった。
当時の採掘で負傷した右手には、今も湿布が貼ってある。作業の邪魔になる巨大な石を、棒を使って「てこの原理」で同級生と動かそうとした際、棒が外れて右手を強打した。年を経ても痛みが続き、熟睡できない日もあるという。
最初は何のための作業か分からなかったが、現場主任者から「ここで掘ったものがマッチ一箱あればすごい都市一つが吹っ飛ぶ爆弾ができる」と聞かされた人もいた。吉田さんに罪悪感はなかった。「素直なもんですわ。『鬼畜米英』と教えられた子どもの私は、それが心強いと思っていた」。作業は敗戦まで続いた。その後、原爆による被害が明らかになる。「あれは悪魔の兵器を生み出そうとする作業だったんだ」と恐怖した。
蒸気機関車が好きだった吉田さんは機関車の運転手になる夢があった。ただ、一家の食いぶちを支えるのは自分しかいなかった。終戦後、学校を中退。母の説得のため、英語教師が家に来て学校に残るよう提案した。それでも、母は首を縦に振らなかった。夢を諦め、長く農業に従事した。
最近は体調が優れない日も多くなってきた。多くの人の人生が狂わされた戦争について「もう、語り継ぐ余力はあまりない。語れる同級生もほとんど残っていません」。
鉱物産出地の石川町と原爆開発計画の歴史を長年研究する橋本悦雄さん(76)=郡山市=によると、石川町での学徒勤労動員に従事した当時を知る人は、ほとんどが亡くなり、現在は県内に吉田さん、県外では関西と関東に2人が残るだけとみられる。「歴史を残していくためには、われわれのような人が地道に記録していくしかない」と語った。