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太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島で、29歳で亡くなった福島県相馬市出身の赤田邦雄少佐が、海軍司令の記した米大統領宛て書簡を後世に残す上で重要な役割を果たしたことが明らかになった。ノンフィクション作家門田隆将さんが8月に発表した新作で史実に光を当てた。書簡を腹に巻いて敵陣に突撃する役に選ばれつつも、最終的に司令部を守り、書簡を持つ上官や仲間の動きを助けた。書簡は強い者が世界を独占すれば争いは繰り返す―と現代に通じる警句を記し、西洋列強の矛盾を指摘し、日本の立場を訴えていた。門田さんは「郷土が生んだ赤田少佐たちが、今の日本の礎を築いたと知ってほしい」と話している。
赤田少佐は1915(大正4)年、ノリ養殖と農業を営む家に生まれた。7人きょうだいの次男。相馬中(現相馬高)から海軍兵学校へ進み、太平洋戦争のマレー沖海戦やミッドウェー海戦をくぐり抜けた。
門田さんの新作「大統領に告ぐ
硫黄島からルーズベルトに与ふる書」(産経新聞出版)によると赤田少佐は硫黄島で防備参謀の立場。死の直前に米大統領宛て書簡を書いた海軍司令市丸利之助少将の側近だった。
1945(昭和20)年3月、米軍上陸から26日後、市丸少将は地下20メートルの壕[ごう]内で生存者に最後の訓示をした。「100年後の日本民族のために殉ずることを切望する」と語り、手紙の存在を明かした。そして、英訳を腹に巻いて突撃する役目を赤田少佐が担うと示した。和文は別の参謀が持つことになった。米軍は情報収集を徹底していて日本兵の遺体から命令書などを回収していた。市丸少将はこれを逆手に取り、手紙を腹に巻いて突撃すれば、米側に届くと考えた。死を前提とした伝達だった。
しかし、絶望的な戦況が命令を変えた。門田さんの著書によると、書簡は最終的に、通信参謀の村上治重大尉が腹に巻いて突撃し、米側に渡った。赤田少佐は市丸少将から、負傷者であふれた海軍司令部壕の後事を託された。
3月21日夜、壕が米軍に包囲され、赤田少佐は仲間を退避させるため1人で突撃した。服装は、ふんどし1枚。軍刀だけを手にした決死の突撃だった。
書簡は米紙ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンの従軍記者により1945年7月11日付の同紙でスクープとして報じられた。
「世界が強者だけに独占されれば、闘争は永久につづき、人類に安寧・幸福の日は来ない」「仮にヒトラーを倒したとしても、その後、どうやってスターリンを首領とするソビエトと協調するつもりなのか」(門田さんの著書から引用)。記事により、命を賭して米側に渡った書簡は反響を呼び、戦後は書籍や研究論文に掲載された。ただ、日本ではその存在が広く知られなかった。
赤田少佐のおいに当たる赤田恒夫さん(65)=相馬市=は門田さんから一連の経緯を聞き、史実を知った。赤田家には赤田少佐の遺品と共に丁寧な字で兵法などをつづった「研究ノート」が残されている。戦後生まれの恒夫さんは赤田少佐が立派な人物だったと親世代から聞き、遺品からきちょうめんな性格を感じてきた。恒夫さんは「書簡は未来を予見したかのような視点で書かれている。命を懸けて届けようとした伯父の思いに接することができた」と目を細める。
戦後80年の今、門田さんは書簡の思いに触れる意義を強調している。