【復興検証 震災・原発事故15年】第5部 自主避難❶ 「線引き」に理不尽さ 「不要」と風当たり強く

  • [エリア] 郡山市 飯舘村
【復興検証 震災・原発事故15年】第5部 自主避難❶ 「線引き」に理不尽さ 「不要」と風当たり強く

福島のニュース


東京電力福島第1原発事故に伴い、幼い2人の子どもと共に福島県郡山市を離れた森松明希子(52)は、避難先で「理不尽さ」を感じさせられる体験を繰り返してきた。
子どもの入園・入学手続きをはじめ、各種の手続きで滞在先の役所を度々訪ねた。応対した職員に「避難区域外からですよね」などと聞き返された。そのたびに避難指示区域の内と外の「線引き」を実感した。自主避難者に当たる自分は「非公式の避難者」と扱われた気持ちになった。
勤務医の夫(55)と3歳の長男、生後5カ月の長女の4人で郡山市に住んでいた。森松は兵庫県伊丹市出身、夫は東京育ちだ。地縁、血縁のない地ではあったが、「ママ友」に恵まれて暮らしていた。
穏やかな日常は東日本大震災と原発事故で一変する。長男は幼稚園に長袖・長ズボンでの登園を求められ、大好きな外遊びも制限された。放射性物質への懸念が広がるにつれ、仲間内でも親族や知人を頼り、関西や九州に向かう人が出始めた。
平年ならば年度替わりの転出入が収まる4月に入っても、自宅マンション前には毎週末に引っ越し業者の車が横付けされた。「子どもを守らなければ」と焦りが募った。医療現場で働く夫は動けない。避難すべきか、残るべきか―。母親としての選択を迫られた。
4月22日。福島第1原発から同心円状だった避難区域が見直され、原発から30キロ以上離れた飯舘村などが計画的避難区域に指定された。約60キロ内陸の郡山市にも「影響が及びかねない」と思い詰めた。西に行けば親きょうだいを頼れる―。大型連休に夫の車で妹のいる京都府に向かった。夫は郡山に戻り、子ども2人と妹宅から兵庫県、大阪府内を経て6月、大阪市に移った。
郡山市を離れた後も安息は遠かった。避難指示という強制力に基づく原発周辺からの避難者と比べ、自主避難者への風当たりは強かった。「不要な避難」とみなされ、ネット上に心ない投稿があふれた。
強制避難との差は歳月の経過につれて際立った。公的な支援は借り上げ住宅の無償提供などに限られ、自力で生活をつくり直すしかなかった。大阪府が避難者向けに用意した公営住宅に入り、夫からの「仕送り」を頼りに暮らした。翌年には「二重生活の足しになれば」と社会福祉法人に就職した。頼れる人もいない中、仕事と育児に奮闘した。
窮状や苦悩を訴える場としたのが、近畿地方への避難者が国と東電を訴えた「原発賠償関西訴訟」だ。2013(平成25)年に大阪地裁に提訴した原告団に加わり、代表を務める。原告79世帯222人のうち、大半を自主避難者が占め、各自が苦悩を語った。弁護団の白倉典武(56)は「避難に合理性を認め、避難区域の内外を問わず十分な支援を受けるべきだ」と主張する。
森松はいずれは郡山市に戻るつもりだった。夫は現在も郡山で暮らし、自分たちの住民票も残したままだ。ただ、放射線への懸念は拭えず、子どもを被ばくから遠ざけたいとの思いも消えなかった。2017年には自主避難者への住宅無償提供が打ち切られる。「避難者としての存在」を否定された感覚に襲われた。
高校3年と中学3年になった長男、長女には避難の経緯や父と離れて暮らす理由を伝えてきた。郡山なまりを覚え始めていた長男も、今は古里の記憶はほぼない。「生涯を終えていた」はずの土地での人生が狂った無念さが募る。
集団訴訟は9月に判決を迎える。同種訴訟では国の責任を否定する判断が相次ぐ。避難した人や地域に残った人、帰還した人…。森松には原発事故が幾多の人生を翻弄[ほんろう]したとの思いがある。「避難した人の人権を認める判決を期待したい」と望みを託している。
震災と原発事故による福島県の避難者は最大16万人余り。避難指示が出た地域以外からも大勢の人が安全・安心を求めて県内外を目指した。強制力を伴う避難と「被ばくの不安から逃れる」という根本で重なるものの、制度上の取り扱いには違いが出た。「自主避難者」と呼ばれる彼らは、どのような戸惑いや困難を経て今に至るのか。15年間をたどり、課題と教訓を探る。(文中敬称略)