【復興検証 震災・原発事故15年】第5部 自主避難❹ 「自主」ではなく「自力」 「なかった」にさせない

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【復興検証 震災・原発事故15年】第5部 自主避難❹ 「自主」ではなく「自力」 「なかった」にさせない

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原子力規制委は東京電力福島第1原発事故の翌2012(平成24)年10月、住民避難や国の対応を定めた「原子力災害対策指針」を策定し、昨年10月までに23度もの改正を重ねてきた。旧原子力安全委による旧指針を見直し、事故に事前に備える「対策重点区域」を旧来の半径10キロ圏から半径30キロ圏に広げるなど、15年前の反省を反映させた。ただ、全72ページの文中に「自主避難」を巡る記述はない。
福島第1原発事故では原発から半径20キロ圏の警戒区域、さらに離れた計画的避難区域といった避難地域の外からも大勢が避難した。規制委の事務局を担う原子力規制庁は「多くの自主避難者が出たのは把握している」とした上で「30キロ圏外では屋内退避を求める場合もあるが、避難を強制することはない」(放射線防護企画課)としている。
担当者は30キロ圏外への避難指示を想定しない理由を「健康影響が少ないと考えられる」などと説明。15年前に自主避難者が大量に出た背景に国、東電が出す事故や放射線を巡る情報の「錯綜[さくそう]」があったことを重く見る。「そうした選択をさせないため、原発やモニタリングの状況を迅速・正確に発信する」との立場を取る。
避難区域外から避難した人々の間には「自主避難」という呼称に違和感を抱く人もいる。福島県郡山市から子ども2人と避難した森松明希子(52)=大阪市=もその一人だ。「自主ではなく、『自力避難』と言いたい」と声を強める。
放射線による健康影響への不安から地元を離れた。国の避難指示に基づかない以上、その行動を「自ら判断した」と取られることは理解できる。ただ、選択よりも、その先の生活状況にこそ着目してほしい―との思いがある。
自主避難者は避難区域からの避難者と賠償基準で区別された。住まい確保の面でも公的支援は借り上げ住宅の無償提供などに限られ、避難先での生活の維持に苦労した。こうした事情を踏まえれば、自力の方が「実態に即した言葉」だと説く。
森松らによる集団訴訟「原発賠償関西訴訟」は、全国への避難者が国と東電を相手取った同種訴訟の中でも自主避難者が多いのが特徴だ。2013年の提訴以降、昨年12月の結審までの12年間で約80世帯が本人尋問で法廷に立ち、各自が避難した理由や事情を詳細に述べてきた。森松は「強制避難者への賠償と同等にとは言わない。当時の混乱を考えれば避難の合理性を認め、何らかの救済があるべきではないか」と仲間の思いを代弁する。
国の対策指針には言及のない自主避難者だが、福島第1原発事故に直面した「当事者」としての意識は避難を強いられた人々と共通している。「自分たちの体験を『なかったこと』にはしたくない」。福島市から避難した元ピアノ講師の武石和美(68)=広島市=は演奏会に語りを交え、自身の歩みを伝える活動を昨年に始めた。
大阪府豊中市出身。1990年に自動車メーカー勤務の夫、2歳だった長女と東京都から福島市渡利に移り住んだ。自宅を建ててピアノ教室を開き、1男1女を育てた。一時避難を経て、事故から半年後の2011年9月、家を手放して大阪府に避難した。
浜松、神戸、京都の各市を経て、3年前から暮らす広島市で原爆投下による被害を伝える語り部に触れた。高齢になっても記憶と教訓を残そうとする被爆者の姿に心動かされ、原発事故を経験した一人としての使命感を強くした。
2月中旬には神戸市灘区の会場で5回目のステージに立った。演奏の合間に出産・子育てという「人生の充実期」を過ごした福島の思い出、記憶の中にある美しい景観を紹介。愛する土地から「避難するか、しないかの選択を迫られた」無念さを聴衆に訴えた。
原発事故は一度、起きれば事前の想定を超える被害を招きかねない。15年の年月を経て自主避難者という存在が社会から忘れられつつあるからこそ、この先も語り続ける。(文中敬称略)
=第5部・自主避難は終わります=